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2.ピラトの心のうちは?
ピラトとイエスの問答は「マタイ」27章「マルコ」15章「ルカ」23章から始まる.「ユダヤ人の王か?」と尋ね(マタイ27:11 )そしてはっきりと3度「釈放する」と述べている(ルカ23:16,20,22 ).(訴えに対する審判者として,ピラトは正しく判断している)
この問答は「ヨハネ」で一番詳しく述べられてあり,そこではピラトは「真理とは何か?」(quid est veritas)とまで言っている(ヨハネ18:38).この部分はいろいろと解釈できようが,ピラトは自分が審判者であることを思わず忘れ,自分もまた真理を求める一人の人間であることに思い至ったのであろう.目前の“真理であられる方”を裁かなくてはならない立場にあると知ったとき,いっそう「真理とは何か」と自問した,また嘆きの声だったのではなかろうか.
さて,釈放のため,「過越の祭り」のならわしを持ち出し(バラバが釈放された),訴える者たちの主張するような「ユダヤ人の王」でなく「ほら,人間だ」(ecce homo)とまで努力している(ヨハネ19:5).しかし「十字架につけろ(crucifige)」の声は高まるばかりである.為政者としてのピラトはどうすれば良いのだろうか? 民衆の圧力は大きい,暴動に発展するかもしれない.一方,イエス側の力は弱い(ないも同然),イエス一人を処刑すれば済むことである.ローマから派遣されユダヤ地方を治める総督の立場として「暴動を未然に防ぐ」のは当然の使命である.私がピラトだったらどうしただろうか?(現実に対処しているときのレバ・タラ議論は不毛であるが,このように他人に気持ちになって考えるときならよい)総督として無責任なことはできない.身柄を引き渡すしかなかった(また,こうして預言が成就することになったのだから).しかしイエスとの問答を通して「この方は王(=真理)だ」と知った.それで「ユダヤ人の王」と書いたのである(『天界の秘義』9144:10 参照.人間,ユダヤ人,王の内意が説明されている).
これを「書き直せ」との要求に,もう総督の立場など関係ない,自分の信念・信仰の証しとして “quod scripsi scripsi”.
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