課外編
原典を読むことの必要性とありがた味

“原典を読むことの大切さ”について、すでにこのことを十分わきまえている方も多いと思うが、蛇足ながら述べてみよう。

 翻訳で避けられない欠陥として――
(1)どのように忠実に訳しても“伝わらない”ものがでてくる。
  (文化の根本からの)言語の相違により、言葉の置き換えだけでは「伝えられないもの」がある。そしてこのことを知るのは「外国語教育」の一つの意義でもあろう。
(2)どうしても“翻訳者の解釈(主観)が入り込む”。
  別の言葉で言えば、翻訳者自身の“理解力”を越えたものは訳せない。当たり前だが訳文は“翻訳者の  力量”に左右される。
(3)“誤訳”を避けられない!
  前術の“力量”にも関係するが、人間のする事だからいろいろな“誤り”が発生する。

 私には、スヴェーデンボリの教えをより厳密に、正確に、本来の意味を知りたい、人の解釈に頼りたくないという思いがあった。上記の翻訳物のもつ宿命を思うとき、必然的に原典に向かうことになった。そしてもともとたいした語学力もなかったので、苦しい努力の末ではあるが、今ではなんとか原典が読めるようになった。このことを“ありがたく”思っている。

 その“ありがた味”について具体的に述べてみる。
 89年に購入した柳瀬訳『霊界日記』を90年頃に読んでいた。当時、よくわからない箇所が多く読み辛かった。そうした疑問の箇所に“?”の記号を付けて先へと読み進んだ。
 その疑問個所の一つが次の文である(4824番・パウロの書簡について、その最後の部分)――
 「……しかし主はそのことを教えられ、仁慈の善が凡てのものとならなくてはならないといった方法で教えられたのである」
 ここの「そのこと」とは“何なのか”わからなかった。というのも、通常「そのこと」とあれば、その文の、前の方にその指し示すものがあるのだが、見当たらなかったから(柳瀬訳のこのままの文章でその意味を汲める人がいたら、私は驚嘆してしまう!)。この訳は読者が(少なくとも私は)意味を汲むのに失敗しているので、百歩譲って誤訳と言わないまでも悪訳であることに間違いない。(この疑問は、以下の解説のように、後に原典を読んで氷解した)

余談となるが、よく理解できない文に出会ったら、そしてそれが訳文なら、自分の思考力を疑うよりも、“誤訳”ではないか、と疑ったほうが健康的である。

 脱線ついでに“誤訳”について考えてみると、誤訳にも大きく分けて3つあろう――
(1)勘違い、いわゆるミスである。これは訳者がよく読み返せば発見でき,修正できるものである。
(2)内容は把握(理解)したが訳文として不適当なもの。誤解を生む表現や訳語自体の問題などがある。最後に
(3)内容が把握できていないもの(これが最悪である)。
 このとき2つの訳し方が考えられる(訳さない、………などで表記する、を含めれば3つかもしれない)
[その1](わからないところを)訳者の解釈を加えて訳しておく。
[その2]ともかく“訳語を並べ立てておく”←これが悪い意味での“直訳”である。
 なお、内容を捕らえていても(研究上の必要などから)わざと“直訳”することもある。これは良い意味での直訳といえよう。

 さて、話しを戻して柳瀬訳のもとである英文を見てみる――
“…; which, however, the Lord has taught, but in such wise that the good of charity should be the all.”
 “which”を「そのこと」、“in such wise”を「といった方法で」と訳してあり、英文を悪い意味で“直訳”してあるとわかる。
 この英文からでも本来の文意がなんとなくわかるが、ラテン原典だと――
“…,quod tamen Dominus docuit, sed ita ut bonum charitatis esset omne.”
           《余談:このように「ラテン語→英語」でも、訳文の方がどうしても長くなる》

 まだまだ貧弱な(ラテン語の)語学力から直訳すれば――
「それでも主の教えられたこと(quod)は、このように(ita) 〔です、それは〕仁愛の善がすべてであること(説明のut)です」

 文法的に補足すれば、@“sed”は否定的な言葉 tamen の後に出てくるので「否定の否定」で「逆接」でなく「順接」。A“ut以下”は訳文のように“quod節”を受けるが“ita”も受ける、と思える。
 すなわち、「主が教えられたこと」とは“ut以下”の「仁愛の善がすべてである」であろう。
 柳瀬訳に則して言えば、「そのこと」は後述の「仁慈の善が凡てのものとならなくてはならない」であり、「といった方法で(ita) 」は「そのように」とすれば意味が通じる。

 結論として、このように原典にまでさかのぼれば意味が判然とすることが多い、しかも決して高度な語学力を必要としない。これが“ありがた味”である。私は“翻訳の限界”を感じているので原典に向かう。

(『荒野』1999年3月、第35号より)