14-2

「主の祈り」 (6)
REMITTE NOBIS DELICTA NOSTRA,
レミッテ・ノービース・デーりクタ・ノストラ
SICUT NOS REMITTIMUS DELINQUENTIBUS CONTRA NOS.
スィクウト・ノース・レミッティムス・デーりンクェンティブス・コントラ・ノース

2.独特な“DELICTA”

 スヴェーデンボリの“主の祈り”のこの部分だけがギリシャ原文を忠実に訳したものでないことは注目すべでしょう(もちろん,忠実な訳の『ウルガタ』とも異なる).「ルカ」(11:4)では peccata(罪,過失)であり,これとも異なります.
 『真のキリスト教』495:12に,この語が登場するので,以下にその箇所を抜き書きしてみます――

 ……「私の見解では,仁愛とは各人に(cuique)その delicta を許すことです.私はこの見解を,聖餐式に出席する人の通常の会話から取りました.なぜなら,ある者はそのとき友に『私に quae deliqueram を許してください』と言うからです」……主ご自身が教えられた祈りの中で,「父よ,私たちの delicta を私たちに許してください,……」と言っています〔この部分が標題〕.なぜなら,delicta は潰瘍のようなものであり…….隣人に対する delictis も同様であり……悔い改めないで,ただ神に自分の罪(peccata)を許してくださるよう祈る者は……実際の悔い改めもなく罪(peccatorum)の赦しを主に……

 このようにスヴェーデンボリは明らかに“罪”と delicta を使い分けています.彼は「罪の赦し」についてしばしば語っていますが,「debts(ラテン語で debita)の許し」については語っていません.『天界の秘義』4955には,仁愛を行なうべき対象者をいろいろな種類に分類して語っていますが,(古代人たちは)それぞれの者に対してどのような“debito”があるか知った,とあります.すなわち,debts を“負債”というよりも“義務”としてとらえています.

 たしかに,「義務を赦してください」とは祈れません.また,人間に人の罪を赦すことなどできない(ルカ 5:21)ので,「他人の罪を赦すから,自分の罪も……」などとは,さらに言うことはできません.